近年、その人気はうなぎ上り、鯉のぼり!
ものすごい盛り上がりを見せた東京都美術館の生誕300年記念若冲展。
5月24日で終了しておりますが、約一月で何とその動員数は44万人以上であったとの事であります!!
近場の方は足を運ばれた向きも多いのではありませんかな?
OSSANも御多分にもれず行ってまいりましたな。
いえ、行っただけなんですがね・・・;;
5月17日の東京はあいにくの雨でありましたな。
OSSANは夜勤明けで意識朦朧、フラフラする足取りで上野へ向かったのでありますよ。
5/18はシルバーデイとの事で65歳以上の方々は入館料がタダになる日とのことであり、文字通り阿鼻驚嘆の大混雑になるであろうと予想し、無理して出向いたのであります。
「雨だし~。明日がサービスDAYらしいし~。平日だし~。絶対空いてるよねw」等と余裕をかまして我が真っ黒勤め先から直行した上野東京都美術館は入館までなんと270分待ちという大行列であったのでありました。
いや~、あれには参りました。「どんだけ人気なんだよ;」
桜の終わったこの時期の上野公園にこれほどの人出を見るのは初めての事でありました。
雨の中、夜勤明けの体力を引きずってやってきた、もともと少ない根性をすっかり使い果たしたOSSANは入館を即刻諦め、行きつけの立ち食いソバ屋の天玉そば¥470をその音もズルズルと虚しく啜り込み明日の釣行に夢を託し寂しくも家路についたのでありました。
しかしTVの特集でみたその画法や人物像、作品群に惹かれてしまっているOSSANは後日、通販で図録的なものを探し、購入いたしましたな。
コイツです☟
「どうしょくさいえ」と読むそうであります。若冲、畢生(ひっせい。一生のうちでの最高傑作の意)の大作というふれ込み。
若冲が42歳~51歳にかけて完成させ京都相国寺へ寄進した30幅の花鳥図群の事でありますな。
ある時、これを見た西洋人が非常に欲しがり、「Oh~!、スバラシイネ、ゼヒワタシに売ってクダサ~イ!代金は言い値で買いますデ~ス!フオォォ〜!!」
と申し出たらしいのでありますが、廃仏毀釈の折の困窮にもかかわらず当時の住職。
「身はやせ細るとも胡乱な西洋人等に将来日本の宝となるべき之を譲れるものか。喝!」
・・・毅然として売らなかったそうであります。
その後皇室御物となり以前よりの良好な管理の元保存、修復され、おかげで現代日本において見事な彩色発色はほぼそのまま、この30幅全て欠けることなく拝見できるということでありますな。(断るまでもないでしょうが台詞はフィクションでありますな。)
OSSAN、伊藤 若冲さんのどこに惹かれたと言うのでありましょうか?
ハイ。単純ですね。
鶏の羽でありますな。
「群鶏図」に見るニワトリたちの、何やら強い意志を感じるそのハッとするような(何だか鶏たちもハッとしている表情・・・)存在感や緻密さにヤラレテしまったんですな。
「TVで見てこの感動。実際に見ることができればさぞや・・・」と思いましたよ(今回は叶いませんでしたがね;)
でね、仕方ありませんので本の方をよ~く見ていきますとこの鶏たちの模様が白、黒、グリズリー、ブラウン、ファーネス?ことごとく見事に描き分けられているんですな。しかもCREEまでいる・・・!
いや~、参りました。
もちろん当時のニワトリ達の羽根は現代のプロショップで陳列されるジェネティックハックルの質感とはかけ離れたものでありましょう。
しかしそんなことはもうどうでも良く、純粋に「美しい」と感じますな。
これのでっかいポスターなんぞあったら間違いなく購入してしまうところでありますな・・・
いやいや、鶏ばかりではないデスゾ。
「蓮池遊漁図」の、空間や視点がぶっ壊れているような、それでいて何とも心地よく楽し気なその浮遊感。
「雪中錦鶏図」「雪中鴛鴦図」の見る人を不安にさせるような、上質な胡粉で描かれる摩訶不思議的粘度を持つように見える独特な陰のある雪の描写。
これも対となる「梅花晧月図」「梅花小禽図」の中には情念とも言えるであろうエネルギーと同時に寂しさをも感じ、激情と静謐が同居するような静かな緊張感。
なおあれがあり、なおこれがあり・・・!
全く、ファンになってしまいましたな。
長蛇の行列に耐え、直に作品群に接することができた方々がうらやましい!せめて図録だけでも購入できれば良かったのに・・・と後悔しきりなOSSANでありますな。(現在は公式から発注できるようであります。買いますなw)
でね。
これら作品群に対するより更に気に入ってしまった一点があるのですよ。
実際はどうなんだか知りませんよ?若冲さんに聞かなければわからないことなんですからな。OSSANが勝手にそう思ってるだけなんですな。
それはね。
「小動物に対しての眼差し」なんでありますな。「無邪気な」と付け加えてもいいかもしれません。まるで小さな子供がそうするように観察し、驚き、面白がり、それを描いている。と感じられるところがOSSANのヒネクレきった心の奥底にグイグイと来てしまいましたな。
フライフィッシングを始めてみるまでは何と言う事もなく眺めていただけの水辺に棲む昆虫や生き物たち。
「池辺群虫図」の中の彼らは若冲の用意した病葉の隠れ家の中で、どこかとぼけて、幸せそうでありますな。
間違って都内で彼らが「お上品な」人目につけば眉をひそめられることもあるでしょう。
今、OSSANはその蜉蝣やカワゲラ達、ユスリカやブヨ、ガガンボや羽アリたちを、虫たちが大好きであった子供の頃とも全く違う興味に突き動かされて観察しておりますな。
そのどれもを(こちらに害がないとあれば)美しく、可愛らしく、愛おしく、そのフィールドの健康や豊穣や季節の移り変わりの証として受け取っております。(マ、いい気なもんです)
蜉蝣達の多様性に富み、逆光に輝く羽根。その独特な飛翔する姿。指先に捉えただけでその生命を奪ってしまうかもしれない繊細な羽虫達。
しかし若冲の描く動物や昆虫、植物も含む全ての生物はそれがどれほど細緻に描き込まれていようとも、決して(写生的な)リアリズムではないんですな。
『描こうとする対象の中の神性の働きを感じることができたときに筆が走る』と言うようなことを若冲は言っておったそうであります。
「うは・・スピリチュアルキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!」と感じるかもしれませんがさにあらず。どこかユーモアを入れ込んでいる作品も見えますな。
では、それらはデフォルメなのかと言うと、絵を見ればそうとも言えない。
何とも、目に見えるもの、もしくは見えないものへの向き合い方、捉え方や表現法や結果としてのその世界は「これが若冲である」としか言えないオンリーワンなんでありますな。
この創作における距離感というか・・・うまく説明できないんでありますがね。なんとな~くフライタイイングに似てるなぁ~なんて思ってしまっているのであります。
どこで読んだか忘れましたが(またかい!)一時期フライはリアルイミテートの道を突き進んだ時代があったとの事であります。テレストリアルの足の一本一本を再現するような世界であったとか・・・!
また振り子は戻りつつあるのでしょうかな?昨年からこの釣りを始めたばかりのOSSANには何も分かりません。
ですがそのようなフライが好みではないことは確かでありますな。未だその流れが続いていたらOSSANはきっとこのフライフィッシングという釣りに足を踏み入れなかったと思うのであります。
今OSSANは自分で巻くフライが勝手なオリジナルになろうとするのをなるべく我慢し、基本と言われる事に忠実に、できるだけレシピ通りに巻くことを心がけておりますな。
言ってみれば狩野派に学び、宋元画を模写し道を探して悶々としていた時代の若冲と同様であるかもしれないですな。(また、大変なことを言い出しましたなこのOSSANは・・・)
徹底的にそれをやってみて、「これはあの羽虫たちの神性ではない。彼らの真の霊性の働きではない!」と感得できる瞬間が来たらオンリーワンを巻けるようになるのかなあ・・・などと夢見ておるのでありますw
やっぱり人の一生は短いですな;;
その前に模写自体がダメダメなのが目下のOSSANの重大懸案事項でありますがね・・・
フライフィッシャーならずともぜひ子供の心と瞳を持つ貴方に、いつか伊藤若冲の作品に触れてみていただきたいと思いますな。
OSSANとまったく違う印象を持つこともありましょうし、ここで触れなかったエピソード(これがまた面白く、惹かれるんですよ・・・)も沢山発見できることでしょう。
蛇足ながら。こういった図録(入門書や解説書)的な書物を購入されるようでしたら初めはなるべく注釈を読まないようにして、できる限り絵だけをご覧になりご自身の印象を大事にされますようお勧めしておきますゾ。